教会の歴史

トリック三河島教会にはドンボスコ保育園、ドンボスコ子育て
センターがあり、ボーイスカウト荒川2団、ガールスカウト東京
108団、そして教会学校と青少年の活躍が目立つ。地元では
教会と言うよりはドンボスコの名で親しまれている。

933年、シャンボン大司教は東京の下町の一つである三河島地区で働くよう、サレジオ会を招いた。サレジオ会は1925年に来日し、宮崎大分で宣教活動に従事していた。

時、三河島教会周辺には教会は無く、浅草、本所、本郷が一番近い教会であった。ただ一つ、町屋に上智大学の学生たちによるボランティア活動があり、イエズス会の司祭が働いていた。

の三河島地区には町工場が多く、小さい家にはたくさんの子供たちがいた。青少年の教育をモットーとするサレジオ会にとって願ってもない働き場であった。シャンボン大司教は土地をサレジオ会に寄贈されサレジオ会の精神に従って自由に会員が働けるように配慮された。

員の最初の活動は日曜礼拝と子供たちのための日曜学校であった。わずか一年のうちに300人の子供たちが日曜学校に通うようになった。また、地域の必要のために作られた託児所、学習塾、そろばん塾、診療所などの事業はつぎつぎに発展していった。これらの社会福祉事業は、多くの人々に利益をもたらした。特に子供たちのための日曜学校は「ドンボスコ」と呼ばれ、子供たちには「ドンボスコへ行こう」と言えば全てが通じ合っていた。

933年6月、三河島小教区は正式にサレジオ会所属の小教区となった。1941年に第二次世界大戦が勃発すると、教会の活動は大幅に制限された。空襲で多くの施設を失い多難な時を過ごした。

かし、終戦後宣教活動は再び活気を取り戻した。
当時の宣教教師の活躍にはめざましいものがある。
扶助聖母会のシスター宮崎カリタス会のシスターと共
に家庭訪問、聖書研究を行い、孤児院、寄宿舎寮など
の施設が新たに建築された。

た、信者は貧しい中から恵まれない人たちへの援助
に全力を尽くした。ゼノ修道士と北原怜子さんとともに
心を一つにして古雑誌、ダンボール集めなど献身的に
「蟻の町」を援助した。

済的困難から一時は廃園寸前までいったドンボスコ保育園もよみがえった。子供の多いこの地区でのボーイスカウトは170名の団員をもち、日本には数少ないガールスカウトも結団した。三河島教会は庶民的で、家族的な雰囲気を持ち、子供好きのサレジオ会員によって育まれた教会ということができるだろう。    
                            教区ニュース111号(1994年3月発行)より

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